突然ですが、問題です。
元禄15年(1702)といえば、赤穂浪士討ち入りの年ですね。
では、浪士たちが江戸本所松坂町の吉良邸に討ち入って、吉良上野介義央(きらこうずけのすけ・よしひさ)の首をとったのは、何月何日だったでしょうか?
……多くの人は、12月14日と答えるでしょう。
ところが、答えはそう単純でもないのです。
実は、大石内蔵助を筆頭にした赤穂浪士が吉良邸に入ったのは寅の上刻(七ツ時、午前4時ごろ)。
現在の感覚では12月15日の未明ということになりますが、当時の庶民のあいだでは、夜明け=明六ツ(冬の午前6時ごろ)が1日の始まりであり、それ以前の真夜中や未明は、まだ12月14日の範疇でした。
そうしたことから、現在では「討ち入りの日」が毎年12月14日(新暦)、吉良上野介が亡くなったのが12月15日とされているのです。
けれども、より厳密を期せば、吉良上野介の首がとられたのは六ツ前(午前6時前)との説が有力。夜明け前であることから、もしかしたらその命日も12月14日とすべきだったのかもしれません。
さて、その赤穂浪士討ち入り日にあたる本日12月14日、講談社の運営するWebメディア『現代ビジネス』に、加来の執筆した寄稿文「赤穂浪士討ち入りの理由は「忠義」じゃない? 実は誤解だらけの「忠臣蔵」の真実」が掲載されました。
【現代ビジネス】
「赤穂浪士討ち入りの理由は「忠義」じゃない? 実は誤解だらけの「忠臣蔵」の真実」
吉良邸に討ち入り、しばしば「赤穂義士」と呼称される四十七士(実際に討ち入ったのは46人)は、主君であった浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみ・ながのり)の仇を討ち、無念を晴らした忠義の臣、ということになっていますが……。
実は、そこには大きな誤解があり、その背景には当時、江戸の泰平を生きる武士たちのあいだに残っていた「かぶき者」の気風が影響していた――というのが、加来がこの記事で述べていることの概要です。
ぜひ、皆さまのご高覧をたまわれればと存じます。
(令和2年12月14日 加来耕三事務所 髙井岳)